さようなら。判断停止。(グッバイ・エポケー)-情報という厄介な隣人と仲良くする方法-

1.軽い気持ちでググるぼくら

ハローフォルクス。

きょうも元気にwebの調査、企画、設計、制作、開発、テスト、運営にいそしんでいますか?
かくいうわたくしも、かれこれ20年以上、webやコンテンツの制作、開発に携わっています。
わたしやわたしの身の回りだけでも、いそしんだらいそしんだぶん、webのコンテンツやシステムが生みだされるわけでして、日本や世界というスケールになれば、webのコンテンツやシステムはそれはもう乗算的に増殖し続けているわけですね(なかにはwebから消えていくものもありますが、そこまで自浄が作用する社会やシステムでもないのでそこは見て見ぬふり)。

同時にタイパなんていう言葉に表されるよう、あらゆるスピードが上がってます。
表示も操作も処理速度も。もちろんビジネスも、社会も、人の営みも。
おそらく人や組織要因でもっとも時間がかかるであろう意志決定ですら、AIに委ねるという魔法のような選択肢を実装した自律型兵器なんてものも現れて、AI利用にあたっての倫理や理性がサミットのテーマにもなるくらい現実のものになりにけりです。
エモいという言葉ですら、もはや定義も共通認識も不十分なまま一人歩きしているいま、愛だろ?愛。なんて90年代のCMみたいな感傷につけいる余地はあるのか。

目についたちょっと気になった言葉は検索エンジンにポイ。
うまそうなごはんをカメラでとって画像データをポイ。
誰が見てるかわかんないけど一言二言書き散らかしたらテキスト情報をポイ。
通勤中にインスタ見てたらなんかよさげな商品があったからお店のサイトにいってカートにポイ。
急な出張で新幹線だのホテルだのおさえなきゃいけなくなったのでダイナミックなプライス情報と入れ違いに決済情報をポイ。
おはようからおやすみまで、インターネットにふれあってみんなしてポイポイしてるんですもの。
そりゃデータセンターの電力消費や熱冷却、物理メモリというインフラやエネルギーの問題につながるってものです。
次は温暖化防止の観点から、インターネットの利用をやめようというコラムでも書こうかなと思うくらい、はやくも、自分が何をいいたいのかもわからなくなってきました。

あ、このコラムでお役立ち情報とかTipsなんて書こうという気は毛頭なく、つれづれに考えてることを書き下してるだけです。その前提でご笑覧ください。ごめんなさい。

2.情報がそんなにえらいのか

閑話休題。

巨大文明には文字情報があり、それらが紀元前からアーカイブ化されてきたことで、現代の高度情報化社会につながっているわけです。
が、そこをあえて問うのです。情報がそんなにえらいのか?と。そこまでえらくもないんじゃないのか?と。

ディープラーニングのプロセスは、多量のデータをサンプリングし、不適格なデータをクレンジングし、はじめてマイニングできる状態になるのだけれど、情報を通じて何をしたいかによってサンプル情報も変わるし、マイニングで導き出したい解析内容によって、軸も観点も情報の深さも複雑性も変わります(結果や評価が変容します)。
学術情報でもなんでもない調べものなら、実際のところは二次情報、三次情報、真偽不明な情報を溢れかえらせるばかりで、目的を伝えられないまま「情報集めて」という指示があれば、そりゃあ情報を集めること自体が目的化してしまう場合だってあるわな。

もちろん、一過性の特定の問題の解決(プログラムエラーの解消とか、電化製品の動作不良とか、言葉の意味とか、近くのレストランとか)が目的だったなら、検索結果から導き出せる情報は多少精度のゆらぎはあれど、その即応性においてとても有用なのは間違いないし、すばらしい技術であり、知識の集積だといえるでしょう。
でも、答えが一つではなく、継続的に存在したり、時代や価値観によって判断が変わったり、普遍性のある問題だったら。
そうなると情報は、決して解そのものや判断軸にはならない、判断の材料にしかなり得ません。
暴論を承知でいうならば、どれだけ優良な、有用なソース(情報)をベースにしたとしても、判断や活用法がイケてなければアレですし、どれだけ陳腐で、無用なソース(情報)をベースにしたとしても、判断や活用法がすばらしければよいのです。
そして判断の主体はわたしでありあなたであり、あなたの身の回りの人たちです。

うん。情報より判断が大事なのはわかった。それにしてもわたしは何が言いたかったのか。

3.(情報は)スタッフがおいしくいただきます※予定

白状します。

当初は『明日のブレストに役立つ水平思考★』とか、『ものの見え方、考え方が変わる!鳥の目、虫の目、魚の目』みたいなことを書こうかな。
なんて思ってたんですけど、安いビジネス本みたいになっちゃうなぁとおもってつらつら書いてきたら、今やこのありさまです。

情報に傾向や法則を見出すのも、ましてや運動や作用を加えるのも、情報そのものではありません。
有名人の不倫という情報は、それ以上でもそれ以下でもなく、スクープとか炎上とかお詫びとか謹慎は外的な運動であり作用ですよね。
創業100年無借金経営という情報は、事実であればすばらしい健全経営がうかがえるというだけで、それを社員や社会に還元している、事業拡大につなげている、脱税が摘発された、創業家が会社を私物化している、といった情報そのものの成り立ちや、情報の外郭に対する運動や作用で情報の評価もいくらでも変容します。

情報そのものには価値がない、とまでは言いませんが、情報をそのまま垂れ流すことには、労力以外の価値がないかもしれない、とは言えます。

ではわれわれは、そんな情報をどう料理すればいいのか。
というわけで駄文を垂れ流したおわびとして、構造主義と要素還元主義の間をひたすらに行ったり来たりするかが大事。
っていう話を、次回させていただきます。

まさかの続編を書くハメになった事実に、自分でもほんまかいな、って思ってます。

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